西城秀樹とは
出生名 木本 龍雄(きもと たつお)
生誕 1955年4月13日
日本の旗 日本広島県広島市
(現:東区)東蟹屋町
死没 2018年5月16日(63歳没)
日本の旗 日本神奈川県横浜市
学歴 明治大学付属中野高等学校定時制
卒業
ジャンル J-POP
職業 歌手
俳優
活動期間 1972年 – 2018年
レーベル 1972年 – 1975年:
「ビクター音楽産業」
1975年 – 1987年:
「RVC」
1987年 – 1999年:
「BMGビクター」
1999年:
「キングレコード」
1999年 – 2001年:
「ポリドール」
2002年 – 2013年:
「ユニバーサルミュージック」
2015年 – 2018年:
「Battle Cry Sound」
事務所 アースコーポレーション
公式サイト 西城秀樹オフィシャルサイト (日本語)
参考:ウィキペディア西城秀樹より
昭和の元号を生きた人ならご存知であろう、西城秀樹さんがお亡くなりになりました。
リアル秀樹を知らない世代でも「ちびまる子ちゃん」でまる子のお姉ちゃん「咲子」憧れのアイドルという事でご存知だと思います。
ヒデキにまつわる思い出
私は西城秀樹が大活躍の頃は異性にときめくことも知らない子どもでした。
今では孫もいる叔母が独身時代、野口五郎と西城秀樹のファンでした。
母親の実家に帰るたびに、叔母は出勤前に今は亡き祖母に
「お母ちゃん。今日テレビに野口五郎出る?」
「西城秀樹出る?」って尋ねては、新聞のテレビ欄を祖母にチェックしてもらってました。
・・・いい大人なんだから自分でテレビ欄見ろよ・・ともう少し私が大人だったら突っ込んでみたい所です(笑)
あの頃活躍していた芸能人って「アイドル」というより「スター」って言葉がしっくり来る方が多かったと思います。
トイレに行くなんて想像できなかったです。
私は子供心に「ゴローよりヒデキやな」とぼんやりながら思ってました。
もう、年がバレますが幼稚園から小学生の頃は毎日のように「新御三家」をテレビで見ない日は無かったと思います。
まだお子ちゃまだった私は、男性アイドルより女性アイドルが好きでしたが、それでもヒデキはカッコいいと思いました。
理由はよくわからないけど、ワイルドな所に惹かれてたと思います。
ヒデキと言えば「YOUNG MAN ~YMCA~」や「ギャランドゥ」「傷だらけのローラ」が有名ですね。
平成なら「走れ!正直者」でしょうか?
だけど子供心ながら「YOUNG MAN」が出る前に非常に心奪われた曲がありました。
それは「ブルースカイブルー」です。
壮大な抜ける感じのアレンジ。そして今更ながらすごかったヒデキの伸びのよいシャウト。
歌詞の意味なんて知らないで「ええ曲やな~」と思ってました。
当時、今でいうURの最上階に住んでた私は、晴れた日に昼間に部屋で寝転がったら窓から抜けるような青空が見えました。
その空を見上げなたら「あぁ、ずっと学校行きたくないな。」と思ってた事を思い出します。
歌詞を一節だけ抜粋します。
ゴールドの指輪をひきぬき
このぼくとともに歩いてと
無茶をいったあの日
随分大人になってから歌詞の意味を理解して愕然。
「これってゲス不倫の歌だったの???」
まだ少年とも男性ともつかない年頃の子が、人妻様に恋い焦がれ破れた歌だったのですね。
そんな意味も知らずに「学校行きたくない」と結びつける私ってば・・・。
それから数か月後に「YOUNG MAN」を初めてテレビで見た時は衝撃的でしたね。
身体全部を使った人文字で「YMCA」の振り付け。
バックにスクールメイツだか、タレント予備軍のようなトレーナーにスコートのお姉ちゃん方を従えて踊る姿は圧巻でした。
大勢の歌手が出てくる歌番組では、共演者までが一緒に「わーい、えむ、しーえー」ってやってました。
テレビの向こうがまぶしかったな~って思います。
学校でも振り付けを真似する男子続出でした。
その頃位に始まった「ザ・ベストテン」ではこのYOUNG MANは史上最高得点の「9999」をたたき出したのは有名な話。
その2年後の「セクシーガール」ではレコードプレスを1000万枚目をご自分でプレスする所もテレビで見たような記憶が・・・。
子ども過ぎて音楽の事あまりよくわかって無かったけど、小学生の頃からドラムを叩いてた西城秀樹。
最近ダイヤモンドユカイ(レッドウォリアーズ)と森重樹一(元ZIGGY)との対談で
「西城さんも時代が違えばZIGGYやレッズ(レッドウォリアーズ)のようなバンドをやっていたと思う」と言われてます。
参考:東スポWEB
ライブでも洋楽のカバーが多かったようですね。
洋楽のカバーは先述の「YOUNG MAN」がヴィレッジピープルの「YMCA」
そして初めてスティービーワンダーの名前を知る事になる「愛の園」
この「愛の園」は子供のコーラスが入るのですが、このコーラスには当時小学生の西田ひかるも参加してました。
このほかでは「抱きしめてジルバ」はワムの「Careless Whisper」のカバー。
ワムも結構流行っていた時期があったので覚えてます。
熱狂的なファンでも無かった私でもこれだけ思い出すのだから、ファンだった人の喪失感は半端ないと思います。
大阪人として忘れれは行けないのは、日本人で一番最初にスタジアムコンサートを開催したのは西城秀樹
1977年から10年間は「大阪球場」で夏に毎年コンサートがありました。
子供の私は行けなかったけど、テレビや雑誌でスケールの大きいことをヒデキがやっていたのは知ってました。
通常のホールコンサートなら実現しないであろうクレーン車を使ってパフォーマンスをやってたようです。
大阪球場が本拠地だった南海ホークス(現・ソフトバンクホークス)の試合より入場者が多かったとか(^^;)
大阪球場が満席になったんですもんね。
すごいことです。
この後、大阪球場は住宅展示場に変わってしまいます。
ヒデキ以降、チェッカーズや渡辺美里、TUBE、尾崎豊、サザンオールスターズもここでコンサートをしてました。
今は住宅展示場もなくなり、なんばパークスになっています。
私もたまに買い物や食事に出掛けます。
一度だけ生ヒデキと生YMCA
西城秀樹のすごさは知ってはいたけど、コンサートには一度も行った事のない私でした。
今から10年以上前、多分1度目の脳梗塞から復帰して色んな所で歌っていた西城秀樹。
私もとあるイベントを見に行ったら、そこのゲストになななんと西城秀樹。
一度だけ「生ヒデキ」を見る機会がありました。
野外イベントだったのですが、あの「ブルースカイブルー」を彷彿させる晴天の下。
ヒデキにお目にかかれるなら是非とも歌ってほしい「YOUNG MAN」を期待通り披露して下さいました。
私の知ってるオクサマも旦那さんそっちのけでヒデキに夢中だったことを思い出します。
私も「これは一期一会。参加出来てラッキー。」と思いました。
両手いっぱい「わーい えむ しえー」と踊りました。
あれが最初で最後の生ヒデキ。
お目にかかれて良かったと思う反面、旅立たれるには早すぎると思わずにはいられません。
闘病お疲れさまでした。
まだまだ心残りな事は沢山あったと思いますが、ゆっくり休んで欲しいです。
今にして思うと、本当に昭和の時代ってテレビの世界がキラキラしてたと思います。
ヒデキは歌もうまくて背も高くて本当に格好良かった。
カッコいいのにおちゃらけた番組にも出てて、番組名は忘れましたが
ダウンタウンの出てる番組で松本人志が女装して、
西城秀樹の「ギャランドゥ」をBGMにするVTRがありました。
「悔しいけれど お前に夢中 ギャランドゥ♪」
のフレーズの「ギャランドゥ」を「人志」と替え歌にしてヒデキ熱唱。
「なんて懐の広い人なんだ」と思った記憶がありました。
懐の広い実力もあるアーティストがいなくなるのは寂しいです。
ご冥福をお祈り申し上げます。
コメントを投稿するにはログインしてください。