1869年3月11日は「パンダ発見の日」からパンダの歴史をひもといてみました

1869年3月11日西洋人に初めてジャイアントパンダの毛皮が披露された日

世間的にはこの日は「パンダ発見の日」と言われています。
フランス人のカトリック宣教師、アルマン ダヴィッドが初めて「ジャイアントパンダの毛皮」を現地人から見せられた日です。

つまり、正確には「パンダ発見」というよりは、中国人以外で初めてジャイアントパンダの存在を知った日と言う方がしっくり来ます。

ダヴィッドは中国に布教の為に中国に派遣されて、この日現地人のお茶会に呼ばれて、
「極上の白黒クマ=ジャイアントパンダ」の毛皮を見せられました。

この時代の宣教師は、布教の他に博物学の追求も許されていたため、標本採取も行っていて、
採取したものをフランスに送る活動もあったのです。

ダヴィッドはこの毛皮を有する生き物を探しに、高い絶壁や堅い雪の上を長時間探したものの、
なかなか見つからなかったと言います。

やっとの思いで手に入れたこの生き物の骨と皮の標本を「白黒クマ」としてパリの国立博物館に送りました。
この「白黒クマ」説に異論を唱えたのは、フランスの鳥類学者・甲殻類学者、博物学者でもある
ミルヌ=エドワールでした。
ミルヌは「白黒クマ」を見た時、頭骨、歯並び、足裏に毛が生えている所がレッサーパンダに似てるとしました。

ミルヌは「白黒クマ」を「レッサーパンダ」と区別するために「ジャイアントパンダ」と呼びました。

この生き物は、長年アライグマやレッサーパンダと同じ種類か、
はたまた「白黒クマ」かで論争が繰り広げられました。

1948年アメリカのアトランタ大学にある血清博物館で、ジャイアントパンダの血清は、
クマとアライグマ(レッサーパンダ)とどちらが近いか測定されました。
この時、血清はクマに近いと結論付けられました。

この論争は割と最近の2010年「ゲノムの完了」まで続きました。
ゲノムの完了とは細胞や染色体等の遺伝子の情報の解析が完了したという事です。
ジャイアントパンダはレッサーパンダやアライグマの系統との結論です。

初めて「パンダ」という名前が登場したのはいつ?

1825年8月、フランスの動物学者フレデリック・キュピエによると「パンダ」はヒマラヤで発見されました。
特徴はフサフサした毛・キツネに似た白い顔・黄赤色の体とレッサーパンダの特徴そのままでした。

フレデリックはネパール人のガイドに「あれは何という生き物ですか?」とたずねました。
ガイドから「ネガリャポンヤ(竹を食べる者)」と教えられました。
ネパール語の「ポンヤ」がなまって「パンダ」と呼ばれるようになったという話が有力です。

1869年の「パンダ発見の日」までは、レッサーパンダが「パンダ」と呼ばれてました。

パンダ狩りの始まり

1900年代中国は「義和団の乱」扶清滅洋をスローガンに掲げた内乱です。
当時の中国では西洋的なものは排除されるようになり、次々と攻撃されました。

そんな中西洋人が中国を旅するのは危険な時代であったにもかかわらず、
西洋人は中国で動植物の採取を続けました。

パンダ受難の時代は以下の通りです。

1908年 ハーバード大学のウォルターサッピーは白黒クマ=ジャイアントパンダの毛皮を探しに中国に行くが見つけられず。
1914年 ドイツ人グループがパンダを探しに猟犬同伴で中国に行き、現地人からパンダの赤ちゃんを買い取り(すぐに死亡)
このドイツ人グループが「生きたパンダを初めて見た外国人」となりました。
1916年 オーストラリア宣教師、ジェームス・ヒュートン・エドガーは100m離れた所から木の上のパンダを発見し捕えようとするが、パンダは一向に降りてこなかったといい、パンダをとらえる難しさを「パンダを待つ」という詩を書いて残してます。
1921年 イギリスの外交官ジョージ・E・ペレイラは「パンダを撃ち殺した最初の外国人」になろうと3か月四川に滞在したが、木の上にパンダらしき生き物をちらっと見ただけに終わった。
1924年 ルーズベルト大統領の息子、セオドアジュニアとカーミットが生きた成獣のジャイアントパンダを射殺。パンダの遺体は標本としてシカゴのフィールドミュージアムに展示された。

等など、パンダを愛でる者としては、書いてて胸が苦しくなるような悲しい歴史が繰り返されました。
この影響と、元々年に一度しか繁殖のチャンスがない上、人間並みに選り好みをするジャイアントパンダは、
なかなかカップリングも難しいゆえに、絶滅危惧種への道をたどるのでした。

また、パンダは出産しても一頭か双子を、犬や猫みたいに一度に4頭も5頭も産めないばかりか、
双子を産んでも現在の飼育下のパンダみたいに双子すり替えたり、
2頭同時に育てる母親の存在も確認出来なかったので、丈夫な子どもを飼育して、あとの1頭は飼育放棄される為、
生存率も今より低かったのです。

当時の野生動物は農作物被害や家畜被害、人の命を奪うなどの被害があり、
動物を射殺するのは野蛮な行為という認識はありませんでした。
また、狩猟は男らしさのアピールにもなっていました。

生きたまま初めてパンダを中国国外に連れ出した女性

その後、パンダを生きたまま中国から連れ出すことが出来ないかを考えられるようになり、
冒険家フロイト・ダジュール・スミスは「パンダを生きたまま捕獲する最初の人間になりたい」
という目標を掲げ、動こうとしてたが思うように行きませんでした。

同じころ、アメリカ東部の名門大出身の若者の一団が上海に行き、コモドオオトカゲと生け捕りにしました。
その一団の一人がウイリアム・ハークネスでした。

ウイリアム・ハークネスはスミスと、イギリス人のジェラルド・ラッセルと組んで
「生きたままパンダを中国の外へ連れて行く」目標を掲げました。

しかしウイリアムはガンに冒され34歳の若さで死去。
彼の未亡人でファッションデザイナーでもあり社交界で活躍していたルーク・ハークネスが夫の遺志を継ぎました。

ルークはスミスの実務能力のなさから、スミスをパンダ捕獲のパートナーにはしませんでした。
パンダの生け捕りのパートナーにはパンダ捕獲にルーズベルト兄弟と同行していたジャック・ヤンを選びました。

ルークとヤンは危険な旅を経て1936年成都で赤ちゃんパンダを捕獲。
パンダを「スーリン」と名付けて船でサンフランシスコ入りしました。

パンダが中国を出国するにあたり、税関からうるさく言われましたが、
ハークネスはコネとお金で輸出許可を得ました。

アメリカ本土に戻ってからも、飼育する動物園はパンダ飼育には莫大な費用がかかります。
竹がない。育て方が分からない等で、いくつもの動物園から受け入れを断られましたが、
最終的にシカゴのブルックフィールド動物園で飼育されることになりました。

1937年 中国以外で初めてジャイアントパンダの展示開始。
初日の来園者は53000人。公開一週間でパンダを中国まで出向いてパンダを取得した費用が回収できたのでした。

当時は、船で移動でした。
スーリンはルークとヤンが命がけで捕獲したパンダでした。
今より手間も時間もお金もかかったであろうことは想像できます。

パンダが中国以外で公開されるようになって、80年以上経ちましたが、
ジャイアントパンダの可愛らしさ、人を惹きつける魅力は今も変わらないです。

何度も上野や白浜、神戸を訪れるリピーターのパンダファンの方なら意識されてると思いますが、
パンダを見て「可愛い」「癒される」だけでもいいのですが、過去には生体研究の為に犠牲になったパンダがいたことも、
心に置いて頂ければと思います。


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