チコちゃんに叱られる!なんでお肉屋屋さんでコロッケは売ってるの?1月31日放送分

きゃーーーー!
予想外だった、この世で血のつながりのない人の中で一番尊敬敬愛している久保田さんがご出演!!!
筆者個人的に、大盛り上がりです(笑)

なんでお肉屋屋さんでコロッケは売ってるの?

泉里香:なんで売ってるの?

泉里香:んと、お肉をみたお客さんがお腹が空いちゃうから。

チコちゃん:ボーっと生きてんじゃねーよ!

チコちゃん:利伸さんわかりますか?

久保田利伸:オレ?…お肉屋さんにお使いにいったんですよ。お肉屋さんにしかない脂を使ってコロッケ作ったら美味しいとか?

チコちゃん:なんてコロッケになったの?トンカツじゃなくて。

久保田利伸:ものまねが好きだから(物まね芸人のコロッケさんをひっかけてきたか?)…ごめんなさい・・・(後略)

チコちゃん:今のところあと3回(テレビで)流します。なんか物まねできるの?

久保田利伸:いや、アッコさんの物まねなんてできない。絶対できない。

チコちゃん:それでは行きましょう。久保田利伸で和田アキ子!

久保田利伸:あ~な~た~(「あの鐘を鳴らすのはあなた」のさわりを歌う)

こたえ 洋食のコックさんがお肉屋さんに転職しかたら

解説:東京銀座創業93年のお肉屋さん 阿部光雄さん
(番組ではお店の名前は伏せられてますがおそらく「チョウシ屋」の店主)

肉屋でコロッケを売り出したのは、阿部氏の祖父に当たる阿部清六さんが、
洋食屋から肉屋に転職してコロッケを作り始めたそうです。

清六さんの執念が、肉屋でコロッケを売るきっかけになったと思われます。

多分こうだたんじゃないか劇場「いま、揚げにいきます。」概要

出演:鶴見辰吾

大正6年(1917年)千葉の銚子から上京した清六さんは、コックの見習いとして都内の洋食屋さんで働いてました。
当時の洋食屋のコロッケはクリームコロッケが主流で、値段も高く気軽には食べられませんでした。

清六は子供にも安くておいしいコロッケを、お腹いっぱい食べさせてあげられるようになりたいと思いました。
そこで清六は洋食屋でもだせる、ジャガイモのコロッケの開発を始めました。
当時清六は15歳、同僚からは反対されたようです。(たぶんこうだったんじゃないかということなので)

開発を始めて2年清六17歳の時、安くておいしいコロッケを完成させました。

ジャガイモとひき肉を使ったコロッケは、洋食屋でも採用されました。
清六はいつか自分の店を持つようになったら、このコロッケを店の看板メニューにすると決意しました。

しかし大正12年(1923年)の関東大震災でその夢も打ち砕かれます。
清六の勤める洋食屋も震災の火災で焼失しました。

当時21歳だった清六は、自分の洋食屋を開くことを夢みつつ、
比較的復興の早かった肉屋に転職して働き始めました。

肉屋で働き3年、清六は300円の貯めることが出来ました。
これで肉屋への独立の目処が立ちます。

しかし、清六は洋食屋での独立を諦めきれませんでした。
洋食屋を開店するには、食堂のテーブルやいす、従業員を雇うなど、肉屋よりも備品も人件費もかかります。

清六は費用を掛けずにできる小さい肉屋を開店しました。
そこで、お肉と一緒にコロッケと、オムレツ、希望があればカレーライスも作りました。

肉屋でコロッケを売るようになると、お店も繁盛するようになりました。
値段も洋食屋の8分の1ほどの20銭(現在の130円ほど)だったので、お店に長蛇の列が出来ました。

清六は安くておいしいコロッケを、多くの人に食べてもらいたいという思いから、
同業の肉屋にコロッケの作り方を教えました。

こうやってコロッケを売るお肉屋が全国に増えていきました。

清六は晩年までコロッケを揚げ続け、お店に立つときはいつもワイシャツとネクタイ。
決してコックとしてのプライドを忘れませんでした。

チコちゃんがお店を出すならどんなお店をやりたい?

チコちゃん:んとねー。打ち合わせがしやすそうなお店

感想

御年55歳の鶴見辰吾に15歳から24歳を演じてもらうには、本当に無理があると思います(笑)

阿部清六さんのおかげで、銀座から遠く離れた大阪でも牛肉コロッケが食べられる幸せをかみしめたいと思いました。

お茶目な久保田さん大好きです。


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